Netflix で
Netflix で楽しめるアメリカのテレビ・ドラマ、 現在2シーズン、キャッスル のことを書いていたら、ふと浮かんだ。あら、キャッスルが食べられちゃった、と始まるからである。
ゾンビ
サンタクラリータ・ダイエット は、ゾンビもの、ドリュー・バリモア演じる主人公がゾンビになってしまって、キャッスル のキャッスルさんを食べてしまう、という、なんともグロテスク、アメリカってゾンビ好きだよな、と思ってしまう。
死んでも人を食べながら生き続けなくてはいけない、ってところが、人間の業を表しているのか。家族のため、生きるため、他人を殺して、食べる、というのは確かに、現代社会を象徴しているようにも思える。いや、もう死んでいるのか、死んでいても、死んでいることに気づかない、というのは、落語の世界か。
ゾンビはいつから人を食べるようになったのか、もともとは、そのもともと、というのもどこか怪しげだけれども、「死の相続」のようなパルプ系小説あたりなのだろうか、などと思い、それから RKO映画「私はゾンビと歩いた」、このあたりまでは、特にゾンビだから人を食べるということもないな、と余計なことへ思いが流れる。
滑稽と残酷
今日は、 サンタクラリータ・ダイエット だけで、書こう、と考えたのである。他のゾンビものについて書きたい誘惑を抑えなくてはならない、とひとりで決めている。それもまた滑稽である。
サンタクラリータ・ダイエット の魅力は、この滑稽味、ドリュー・バリモア演じるゾンビになった妻を必死に支える夫というのは、たしかに滑稽なのだけれど、と、同時に残酷、家族に対して、やさしく、他人に対して、残酷、キャッスルなどは首だけで生かされてしまうなんて、ひどい話である。ひどい話を笑いながら観ている、この自分もまた残酷。
滑稽と残酷、「E.T」からの、「チャーリーズ・エンジェル」からの、月日の流れというのも、また、感慨深い。観ている自分もまた、観られていて、滑稽と残酷に取り囲まれて、ひょっとしたら、死んだことを忘れているのかも、などと思う。
ポジティブ
死んだように生きている、死んだことを忘れて生きている、あ、そういえば、と思う。この サンタクラリータ・ダイエット だけではないが、近頃のゾンビは、治る、とされているものが多いような気がする。落語の世界、と書いたけれど、人間の業とするのなら、治りようがないものなのだけれど、近頃は、そんな業でさえ、治る、と考えるのだろうか、なにやら、伝染病の類、とされていたりもする、これはまた、本来的ではない、ともされていることになるか。
サンタクラリータ・ダイエット の場合、 ” 古いもの ” が原因とされていたから、これは、案外、啓蒙主義なのかもしれない。” 闘う子どもたち ” は、人類の知恵、科学の勝利の象徴なのだろうか。

