以下のものの他にもひょっとするとあるかもしれない。Netflix には脚本クレジットが掲載されておらず、検索ができない。あることの知っていた、羅生門 と 砂の器 を記した。
amazon はスタッフ表記はないのだが、検索でヒットする。無関係なものも表示されていたので、肝心なものが検索もれしている可能性は捨てきれない。
Hulu
八つ墓村、砂の器、影の車、霧の旗、切腹、ゼロの焦点、張り込み、
amazon プライムビデオ
羅生門、砂の器、八つ墓村、
Netflix
羅生門、砂の器、
備忘録として
改めて見直しての印象を書こうと思った。
虚構的回想による構成法
砂の器の、捜査会議での報告とコンサート場面を重ねて、犯人の動機と過去を、半ば刑事の想像という形で描写するという構成は、「生きる」の構成が深化したもの、と、書いたところで、影の車でも、加藤剛演じる主人公の少年時代と、彼が殺しかけることになる愛人の子供とが重なるというのは、これもまた回想と想像が入り交じるという構成であり、さらに遡るのなら、羅生門も、証言という形、あるいは、嘘という形で、回想と想像が入り交じる、付け加えるのなら、羅生門 の場合には、より重層的になっているか、門の下で語り合う男たちの回想と想像、お白州での証言者たちの回想と嘘が、ズレながら重なり合う、重層的かつ、夢想と虚構が入り交じる、回想形式。
霧の旗 は、前半、誤れる裁判と弁護士の思考が、想像と事実の相克を見せて、後半、その弁護士と情婦の事件は、主人公の思惑とともに、虚構の重層に飲み込まれる。切腹においては、主人公の行動の経緯として回想が用いられるが、そこで主人公が知り得ないはずのことまでが語られるということによって、その経緯は、単なる回想ではないとされている形式であり、これは砂の器でも反復されている。八つ墓村になると、村の伝説と金田一の推理に、想像と回想、幻視がないまぜにされる。張り込みの、刑事の、張り込み対象への感情移入を示すモノローグ、つまり、想像と、刑事の結婚話、つまり、回想とが、重なり、ずれて、やがて裏切る。
ゼロの焦点では、どうだろうか。探偵役であるところの、新婚の夫を失った主人公の推理と、犯人の回想は、やはり、思惑と実際との乖離とも重なり合う。思惑と実際の乖離というのは、「蜘蛛巣城」にもあった。鷲津が何を見たのかは、映画で明示されればされるほど怪しくなる。
映画の話法における、回想は事実であり、プロットの論理性を形作る。行動の論理的帰結を説明するはずのところのものである。だが、これらの映画は、その映画の話法を疑い、その構成法を疑う。

